頑張れという言葉の残酷さ
「頑張れ」「頑張って」という言葉の残酷さに気がついたのは2回目の司法試験を受けることになった頃からです。
先に受かった友人たちを中心にそういった言葉をたくさんかけてもらいました。もちろん、それが優しさからであることは良く分かります。
しかし、それらの言葉は、当時の私にはとても冷たい言葉でした。
なんと言ったら良いのでしょう。どこか他人事な感じがする(実際そうなんですけど)というか、突き放されている感じがするというか。それでいて、結果が伴ったら一緒に喜ぶよという雰囲気もあって。すごく捻くれていると思うのですが、そういう応援のポーズをとるための都合の良い言葉に思えて仕方なかったのですよね。正味、自分の中ではどうにかしようと頑張っている訳ですし、そんなこと言われても…と思う部分もありました。
そういうのが辛くなって、私は結構な数の人との連絡を断ちました。繰り返しになりますが、優しさでそういった言葉をかけてもらっているのは重々承知していながらです。残念ながら、時に優しさが人を傷つけることもあります。
連絡を断つ前、何人かにそういう自分の気持ちを伝えました。もちろんそれには賛同してくれます。それで分かってくれたと思ったら、しばらくすると似たような言葉が発せられるようになります…こちらはありがとうと言うしかなく、それがまた辛くて。連絡を断つに至りました。
(ちなみに、連絡を断った友人たちですが、何かしらのきっかけで再び繋がりはじめています。
こんな感じで、縁があればまた繋がるので、無理に関係を紡いでいく必要はありません。)
今でも声をかけてくれたみんなには感謝していますが、ある種冷淡な視点から、人の気持ちを本当に理解しようと努められる人はほんの一握りなのかもしれないなという気づきも得ました。
この気づきは遠回りをしたからこそだと思っていて。おそらく、感覚的には誰もが分かっていることではあるはずですが、身をもってでしかその真髄みたいなものは体験できないのではないかと。これをどう社会に還元していくかが私の今後の大きな課題であると思っています。
こういう善意と苦境の渦にのまれるのは大変に辛いものであります。
ここから逃れるには、何かしらの力で潮目を変えないといけません。多くの場合は自力が求められます。
司法試験受験の場合ですと、次の試験まで期間がありますから、それまで耐えるのはかなりの負担です。
それでも、その先に目指すものがあるのなら折れずに前に進んで頂けたらなと思います。結果はどうであれ、その姿勢は、とっても素敵です。
最後に、自分が言われて嬉しかった「頑張れ」の使い方をして締めようと思います(寄り添ってくれている感じがします)。
今、何かに苦しんだり、不安になっているそこのあなたに向けて…
お互い頑張りましょう。